「不良文化」と聞くと、多くの人はリーゼントや特攻服、あるいは改造バイクといった昭和の暴走族やヤンキーを思い浮かべるだろう。しかし、それよりも遥か昔、明治・大正の時代から、日本の若者の間には「主流への反抗」をスタイルとする独自の文化が存在していた。それが「バンカラ」である。

彼らはボロボロの服を纏い、高下駄を鳴らして街を闊歩した。現代の価値観で見れば単なる「不潔な格好」に見えるかもしれないが、そこには確固たる美学と、当時の社会に対する強烈なメッセージが込められていたのだ。本記事では、日本の不良文化の始祖とも言える「バンカラ」の精神と、その究極のスタイルである「弊衣破帽(へいいはぼう)」の世界について紐解いていく。

ハイカラへの強烈なアンチテーゼとして生まれた「蛮カラ」

「バンカラ」という言葉は、明治時代後期に流行した「ハイカラ」に対抗して生まれた造語である。
当時、明治政府が進める欧米化政策の影響で、西洋風のファッションやライフスタイルを取り入れることが「ハイカラ(High Collar=高い襟のシャツ)」と呼ばれ、先進的でおしゃれなものとしてもてはやされていた。鹿鳴館に代表されるような、西洋かぶれの文化が急速に広まり、香水をつけ、キザな台詞を吐く軟弱な男たちが街に増えていた時代である。

これに対し、「日本男児たるもの、表面的な西洋の真似事をしてどうする」と猛烈に反発した硬派な若者たちがいた。彼らはハイカラをもじり、自らを野蛮の「蛮」にハイカラの「カラ」を合わせた「蛮カラ(バンカラ)」と称したのである。
つまりバンカラとは、単に粗暴であることを意味するのではなく、「上っ面の綺麗さよりも、内面的な強さや精神性を重んじる」という、当時の流行に対するアンチテーゼ(対抗主張)から始まったカウンターカルチャーであった。夏目漱石の小説『彼岸過迄』などにも当時のバンカラ学生の姿が描かれているが、彼らは「野蛮であること」を恥じるどころか、むしろ誇りとしていた節がある。

ボロボロこそがカッコいい?「弊衣破帽」という究極のファッション

バンカラの精神を最も色濃く表しているのが、「弊衣破帽(へいいはぼう)」と呼ばれる独特のファッションスタイルだ。「弊衣」はボロボロの服、「破帽」は破れた帽子を意味する。

彼らのスタイルは徹底していた。学生服はあえて洗濯をせずに垢じみるまで着込み、制帽は油や蝋で固めたり、生地が擦り切れるまで破いたりして「年季」を演出する。足元は革靴ではなく、高下駄や裸足。腰には手ぬぐいをぶら下げ、冬でも夏でも黒いマントを肩で風を切るように羽織るのが「粋」とされた。

なぜ、彼らは好んで汚い格好をしたのか。
そこには「身なりに気を遣う暇があるなら、学問や精神の修養に充てるべきだ」という極めてストイックな思想があった。ボロボロの服は貧しさの象徴ではなく、「俗世間の流行や外見的な価値観を超越した存在である」というエリート意識の裏返しでもあったのだ。
当時、このスタイルを実践していたのは主に「旧制高校」(現在の大学教養課程に相当)の学生たちである。彼らは国の将来を担うエリート候補生であり、その特権的な立場と若者特有の反骨心が結びつき、この奇抜な「弊衣破帽」の美学を完成させたといえる。

彼らの生活もまた豪快そのものだった。寮では「ストーム」と呼ばれる行事が頻繁に行われ、夜な夜な酒を飲み、肩を組んで寮歌やデカンショ節を高唱し、暴れまわったという。この無秩序とも言えるエネルギーの発散もまた、バンカラ文化の一部であった。

質実剛健の精神は死なず、現代の応援団へと受け継がれる魂

戦後の学制改革によって旧制高校が廃止されると、街中でマントに高下駄のバンカラ学生を見かけることはなくなった。しかし、その精神とスタイルが完全に消え去ったわけではない。
バンカラの伝統は、主に大学の「応援団」の中に色濃く継承された。現在でも、六大学野球などの応援席では、詰め襟の学生服を身にまとい、規律と礼節を重んじる応援団員たちの姿を見ることができる。彼らが守り続けているボロボロの学ランや、絶叫するような応援スタイルは、単なる古い衣装ではなく、「質実剛健」や「母校愛」といったバンカラ本来の精神そのものである。

また、昭和のツッパリたちが愛用した「長ラン」や「ドカン」といった変形学生服にも、実はバンカラの影響が見え隠れしている。「標準的な制服(=体制)を崩し、自分たちだけの掟や美学を貫く」という姿勢は、形こそ違えど明治のバンカラ学生たちが抱いていた想いと通じるものがある。
現代において、あえてボロボロの服を着る若者はいなくなったが、「チャラチャラした流行には流されない」「無骨であることのかっこよさ」という硬派なスタンスは、いつの時代も形を変えて、日本の不良文化の根底に静かに流れ続けているのである。